今熊神社(本殿)_東京都八王子市

f:id:MizTak:20220303083721j:plain

今熊山山頂に鎮座する今熊神社本殿。
名称 今熊神社本殿(いまくまじんじゃほんでん)
住所 東京都八王子市上川町19
電話番号 0426-54-5201
社格
御祭神

健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)

月夜見命(つきよみのみこと)

駐車場 なし
そのほか 登山道途中にトイレあり。売店や自販機なし。
Webサイト 

今熊山 (東京都) - Wikipedia

◆アクセス◆

JR武蔵五日市駅より「川口経由 京王八王子駅」行きバス(八20)にて「今熊山登山口」バス停で下車(6分)、または京王八王子駅・JR八王子駅北口から「川口経由 武蔵五日市駅」行きバスにて「今熊山登山口」バス停で下車(40分)。

 「今熊山登山口」バス停から徒歩15分ほどで今熊神社(遥拝殿)に到着する。遥拝殿には比較的大きな駐車場あり。遥拝殿のわきにある登拝口から1時間ほどの登山で今熊山山頂の本殿に到着する。

 

 グーグルマップでは奥宮と表示されるが、今熊山の麓には遥拝殿のみが鎮座していて、山頂にあるのが本殿である。奈良県三輪山のように、今熊山そのものがご神体だったのかもしれない。

 鳥居をくぐって真っすぐ進み、遥拝殿わきの登拝口を上っていく。登拝口は木々に覆われて薄暗く神秘的だった。

f:id:MizTak:20220303084009j:plain

今熊神社拝殿前の鳥居。階段の先が登拝口へと続く。

 登山道には階段があるが、段差が大きいうえに道は舗装されていないので、スニーカーよりトレッキングシューズで登るのが良いと思う。山頂付近まで登ると、二本の木にかけられたしめ縄があった。ここから先は神域であることを示しているのだろうが、山中で見るしめ縄はなぜだが少し怖い気もする。

f:id:MizTak:20220318234955j:plain

登山道途中にあるしめ縄。

 1時間ほど登山すると、山頂の本殿に到着した。本殿前はひらけていて、木の椅子と机もあったので、のんびり休憩できる。本殿はこじんまりとした石造りであった。苦労して登ってきた分、ありがたく感じた。

f:id:MizTak:20220318235112j:plain

山頂の本殿前の神明鳥居。

f:id:MizTak:20220303083935j:plain

山頂の今熊神社本殿。

今熊神社(遥拝殿)_東京都八王子市

f:id:MizTak:20220223165848j:plain

今熊神社の遥拝殿。本殿は背後の今熊山山頂に鎮座。
名称 今熊神社(いまくまじんじゃ)
住所 東京都八王子市上川町19
電話番号 0426-54-5201
社格
御祭神

健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)

月夜見命(つきよみのみこと)

駐車場 あり
そのほか トイレあり。周辺には売店どころか自販機もないため要注意。
Webサイト  東京都神社庁HP

 

◆アクセス◆

 JR武蔵五日市駅より「川口経由 京王八王子駅」行きバス(八20)にて「今熊山登山口」バス停で下車(6分)、または京王八王子駅・JR八王子駅北口から「川口経由 武蔵五日市駅」行きバスにて「今熊山登山口」バス停で下車(40分)。ちなみにJR武蔵五日市駅から「今熊山登山口」までは約2.9kmなので、徒歩では30分以上かかる。

 「今熊山登山口」バス停から今熊神社(遥拝殿)までは約1.1kmなので、徒歩だと15分ほどかかる。遥拝殿には比較的大きな駐車場があるので、繫忙期以外なら車で訪れるのも良いと思われる。

 

 JR新宿駅から青梅特快で拝島駅へ行き、そこで五日市線に乗り継ぐと、その終点駅が武蔵五日市駅である。都内とは思えない自然豊かな景色が広がるので、ずいぶん遠くへ来たものだと旅情を感じるが、実際は都心からほんの1時間程度の距離だ。

f:id:MizTak:20220223171410j:plain

武蔵五日市駅。オレンジ色の煉瓦と駅名の書かれた木版が旅行気分を盛り上げてくれる。

 武蔵五日市駅からバスに乗って、「今熊山登山口」バス停で下車した。「今熊山登山口」という名前から、バス停のすぐそばに遥拝殿と登山口があると思っていたが、見当たらない。あたりを見回すと、道路を挟んで反対側に「今熊神社入口」と書かれた石塔が見えた。遥拝殿まではこの道を歩かねばならない。

f:id:MizTak:20220223172853j:plain

今熊神社入口と書かれた石塔

 道路わきの住宅が、道を進むにつれて減っていき、自然が豊かというか、寂れたというか、そんな景色が続いて少し寂しい気分になる。そんな道を15分くらい歩くと、今熊神社の遥拝殿に到着した。

 鳥居をくぐって真っすぐに階段を上っていくと登山口へとつながるが、その左手に遥拝殿がある。境内には稲荷神社もあるそうだが、しっかりと確認はしなかった。

f:id:MizTak:20220223173503j:plain

今熊神社の石塔と神明鳥居。階段を真っすぐ進むと登山口。左奥に見えるのが遥拝殿。
◆御由緒の概略◆
  • 安閑天皇(あんかんてんのう)の御代、病・飢饉が広まったため、現在の和歌山県にある熊野本宮大社を勧請し、今熊野宮と名付けられた。
  • 天皇の御代、宮妃が当社をお参りした際、強風・大雨に見舞われ行方不明となってしまう。丹生大神の神託があり、勅使を当社に遣わせて祈願したところ、行方が見つかった。この逸話から「呼わり山」と呼ばれるようになる。
  • 貞治3年(1364年)以降、今熊野大権現と呼ばれるようになるが、明治になると今熊神社と改称される。
  • 明治42年(1909年)に本村川久保の天満神社を合祀する。

*1

 

 熊野本宮大社を勧請したとあるから、当時の御祭神は家都御子神(けつみこのかみ)だったのだろう。この神様は後にスサノオと同一視されたので、結果として当社の現在の御祭神もスサノオになったと思われる。一方で、もう一柱の御祭神であるツクヨミはどこから来たのだろうか。また、合祀されたはずの天神はどこへ行ったのだろうか。

 創祀は安閑天皇の御代(530年代)であるが、式内社ではないようだ。勧請した熊野本宮大社を含む熊野三山平安時代半ばごろから山岳仏教と結びつき、修験者(山伏)の修行場となったという。熊野系の神社であった当社も山岳仏教と結びつき、修験道の修行場となったのかもしれない。延喜式が成立する頃にはすでに修験道霊場としての性格が強かったのだろうか。

 ところで、呪力の強い山伏は天狗と結びつけられたと考えられている。今熊山が「呼わり山」となった所以の逸話をいわゆる「神隠し」現象であるとすると、その原因を天狗とする伝承があったかもしれない。当社の現在の神紋も、天狗を彷彿とさせる団扇紋である。現代でも深い山々に囲まれていて、登山口からひょっこり天狗が現れそうな雰囲気の、そんな神社だった。

f:id:MizTak:20220223230712j:plain

団扇紋の描かれた手水舎。長い間、水は出ていないようだ。

 

*1:境内の御由緒書きを筆者が訳したものなので、怪しい箇所があります

船橋大神宮(意富比神社)_千葉県船橋市

f:id:MizTak:20220214233043j:plain

社務所前の神明鳥居と石塔。正式名称は意富比神社だが、石塔には船橋大神宮と記載。

f:id:MizTak:20220220194104j:plain

偶然、正月専用の御朱印が頂けた。

基本情報

 JR船橋駅から徒歩で当社へ訪問した。途中、海老川という川がある。「船橋」の地名は古代の英雄が東征の折、この海老川を渡るときに地元民が小船を浮かべて橋の代わりにした逸話に由来するそうだ。由緒書には明記されていないが、この古代の英雄とはきっと日本武尊(やまとたける)だろう。今ではコンクリートに囲まれた小さな川だが、当時は渡るのも一苦労な立派な河川だったのだ。そんな海老川を渡るとすぐに当社の鳥居が目に入る。

f:id:MizTak:20220220185556j:plain

神門へ続く長い参道。境内には松の木が多いが、これは当地がかつては海沿いだったからだろうか。

f:id:MizTak:20220220172349j:plain

境内。2月初旬のため、まだまだ新年の雰囲気

f:id:MizTak:20220214234221j:plain

立派な神門。奥に拝殿が見える。

f:id:MizTak:20220214234308j:plain

神明造の本殿。

 当社の神門、拝殿、本殿などすべて木造・銅板葺で、木のこげ茶色と銅板の緑青色が境内の落ち着いた雰囲気を作り出している。新年の雰囲気にぴったりだった。

 由緒書によると、110年に日本武尊が干ばつに苦しむ住民を救うため、東国平定の成就を祈願するため、神鏡を祀ったことが当社の創始だそうだ。上記の通り、この頃に「船橋」の地名が生まれたのだろう。後に景行(けいこう)天皇が御東行された際に、意富比(おおひ)神社と称される。公式HPによると、古代、「日」は「比」等で表されたことなどから、古代の意富比神社の御祭神は大日神、つまり当地方の有力な太陽神であったとする説が最有力と説明されている。平安時代以降の文書には船橋伊勢大神宮と記載されることから、中世には国家神道の太陽神である天照皇大御神に同化したのだという。

f:id:MizTak:20220220173903j:plain

県指定文化財の灯明台。和洋折衷建築がロマンを感じさせる。

f:id:MizTak:20220220185608j:plain

明治27年に有名な玉川旅館から寄贈された彫刻画。当時は一之鳥居すぐ近くまで海だったことが分かる。

 境内には多くの摂社・末社に加えて、文化財の灯明台がある。現存するものは明治13年1880年)に地元の漁業関係者によって再建されたものだが、それ以前から境内に常夜灯があったそうだ。周辺がすっかり埋立地となった現代では想像しにくいが、境内に飾られている彫刻画にも描かれているように、かつては当社のすぐ近くまで海であり、この灯明台が船橋沿岸を航行する船の安全を守っていたのだ。